参考資料 | 「全国高等学校庭球選手権大会記録」 (全国高体連庭球部編) |
「全国高等学校テニス選手権大会記録」(全国高体連テニス部編) |
大会数 | 年 号 | 開催地 | 歴代部長 | 主 な 出 来 事 | |
1回 | 明治41 | 1908 | 浜 寺 | ・全国中学校(旧制)庭球選手権大会(軟式)が大阪府堺市の浜寺で挙行される。 ・参加校は24校で滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、愛知県(岡崎中学)であった。 |
|
2回 | 明治42 | 1909 | 浜 寺 | ・第二回大会より関西各中学校連合庭球大会と改称された。・参加校は25校で挙行される。 ・新しく奈良県(畝傍、上野中学)、和歌山県(和歌山師範)が参加した。 |
|
3回 | 明治43 | 1910 | 浜 寺 | ||
4回 | 明治41 | 1911 | 浜 寺 | ・毎日新聞社から優勝旗が贈呈される。 ・参加校が31校となる。 |
|
5回 | 明治45 | 1912 | 浜 寺 | ・諒闇(明治天皇崩御)のため、大会は突然中止となる。 | |
6回 | 大正2 | 1913 | 浜 寺 | ・第6回大会より全国中等学校大会と改杯される。 ・参加校が40校となる。 ・慶応大学が硬式採用 |
|
7回 | 大正3 | 1914 | 浜 寺 | ・第一次世界大戦勃発 | |
8回 | 大正4 | 1915 | 浜 寺 | ||
9回 | 大正5 | 1916 | 浜 寺 | ・熊谷一弥氏がマニラで東洋テニス選手権大会に優勝し、全米順位の単5位にランクされる。 | |
10回 | 大正6 | 1917 | 浜 寺 | ・参加校を64校に制限する。前記参加県の他に、岡山・広島・山口・香川・愛媛・福岡・長崎・三重・岐阜・神奈川・東京も参加する。 | |
11回 | 大正7 | 1918 | 浜 寺 | ||
12回 | 大正8 | 1919 | 浜 寺 | ||
13回 | 大正9 | 1920 | 浜 寺 | ・清水善造氏。日本人としてウインブルドンに初出場。シングルス決勝に進む。 ・熊谷一弥氏。相馬誠二郎氏。オリンピック単・複銀メダル獲得。 |
|
14回 | 大正10 | 1921 | 浜 寺 | ・日本デ杯チームが豪州を破り、米国に挑戦した。 ・その当時のボールは1ダース約20円程度した。 |
|
15回 | 大正11 | 1922 | 浜 寺 | ・日本庭球協会が誕生した。 | |
16回 | 大正12 | 1923 | 浜 寺 | ・関東大震災。 | |
17回 | 大正13 | 1924 | 浜 寺 | ・準硬式ボール(現在の軟式庭球のボールのゴムの部分が厚い物でフェルトはない)が考案され、大会使用球と認定された。 | |
18回 | 大正14 | 1925 | 浜 寺 | ・浜寺公園に東洋一の鉄傘のある大スタンド付テニスコート2面が新設された。収容人員5千人、建設費用4万円。 | |
19回 | 大正15 | 1926 | 浜 寺 | ||
20回 | 昭和2 | 1927 | 浜 寺 | ||
21回 | 昭和3 | 1928 | 浜 寺 | ||
22回 | 昭和4 | 1929 | 浜 寺 | ||
23回 | 昭和5 | 1930 | 浜 寺 | ||
24回 | 昭和6 | 1931 | 浜 寺 | ・準硬式ボールによる、最後の大会となる。 | |
25回 | 昭和7 | 1932 | 浜 寺 | ・硬式ボールにより、全国中等学校庭球選手権大会が開催される。 ・参加校は132校となる。 |
|
26回 | 昭和8 | 1933 | 浜 寺 | ・全日本男子中等学校庭球選手権大会兼明治神宮競技大会(現在の国民体育大会)が開催される。この大会は第2回で終わり、日本庭球協会はまた従来の全日本ジュニア大会を主催し、大阪毎日新聞社の主催する浜寺大会を認めるようになった。 | |
27回 | 昭和9 | 1934 | 浜 寺 | ・第1回全国中等学校選抜対抗庭球大会が開催される。(西宮市甲子園テニスコート)現在の学校対抗の前身となる。朝日新聞社が後援となる。 | |
28回 | 昭和10 | 1935 | 浜 寺 | ||
29回 | 昭和11 | 1936 | 浜 寺 | ||
30回 | 昭和12 | 1937 | 中モズ | ・会場が堺市の中百舌鳥町の新設コートに変わる。 | |
31回 | 昭和13 | 1938 | 中モズ | ・第5回全国中等学校選抜対抗庭球大会の会場(甲子園テニスコート)が最後となる。 | |
32回 | 昭和14 | 1939 | 中モズ | ||
33回 | 昭和15 | 1940 | 中モズ | ||
34回 | 昭和16 | 1941 | 中モズ | ・第二次世界大戦(真珠湾攻撃)始まる。 (すべての全国大会が中止となる) |
|
35回 | 昭和17 | 1942 | 中モズ | ・第二次世界大戦中、最後の大会として開催された。 ・参加校は単複とも64校が参加する。全部1セットで実施する。 |
|
昭和18 | 1943 | ・昭和18年から昭和20年まで、大会は中断された。 | |||
昭和19 | 1944 | ||||
昭和20 | 1945 | ・終戦。 | |||
36回 | 昭和21 | 1946 | 中モズ | ・戦後、第1回の全国中等学校庭球選手権大会(男子のみ)開催する。大阪毎日新聞社主催、南海電車会社後援で開催された。個人戦の参加者は単94名、硬40組であった。 団体戦は朝日新聞社の紙上後援で復活となる。(2D・3Sポ イント) |
|
37回 | 昭和22 | 1947 | 中モズ | ||
38回 | 昭和23 | 1948 | 中モズ | 長谷川寛治 | ・全国高等学校庭球選手権大会と改称され、第1回大会が開催される。 ・学制改革により米国占領軍から新聞社が生徒の参加する各種のスポーツ大会を主催する中止命令が下る。折衝の上、朝日新開社主催の全国野球大会と朝日新聞社主催の選抜野球大会とが、例外として許可された。 |
39回 | 昭和24 | 1949 | 中モズ | 長谷川寛治 | |
40回 | 昭和25 | 1950 | 中モズ | 長谷川寛治 | |
41回 | 昭和26 | 1951 | 中モズ | 長谷川寛治 | ・男女の団体戦・個人戦が同一会場で実施されるようになった。 |
42回 | 昭和27 | 1952 | 中モズ | 長谷川寛治 | ・本大会を全国高等学校庭球連盟が主催するようになった。 ・事務局を大阪府立北野高校に置く。 ・全国高体連への加盟要請努力をしたが、地方の普及が進まず、困難をきわめる。 ・本大会使用球はマルケンを使用。 |
43回 | 昭和28 | 1953 | 中モズ | 長谷川寛治 | ・本大会にフィリピン選手が参加する。 |
44回 | 昭和29 | 1954 | 中モズ | 長谷川寛治 | |
45回 | 昭和30 | 1955 | 中モズ | 長谷川寛治 | ・全国高体連が本大会の後援となる。 ・団体戦女子は昭和35年まで2D、3Sの5ポイントで争われた。 |
46回 | 昭和31 | 1956 | 中モズ | 長谷川寛治 | ・全国高体連理事会で「庭球部」の加盟が認められる。(12/11) ・本大会にフィリピン選手が参加する。 |
47回 | 昭和32 | 1957 | 中モズ | 長谷川寛治 | ・全国高体連庭球部発足。 |
48回 | 昭和33 | 1958 | 中モズ | 長谷川寛治 | |
49回 | 昭和34 | 1959 | 中モズ | 長谷川寛治 | ・皇太子殿下、美智子妃殿下ご成婚。 ・第1回教職員庭球大会が本大会中に開催される。 |
50回 | 昭和35 | 1960 | 中モズ | 長谷川寛治 | ・第50回全国高等学校庭球選手権大会を記念して開会式で表彰する。表彰対象者:長谷川寛治・毎日新開大阪本社関係・南海電鉄会社関係。 |
51回 | 昭和36 | 1961 | 中モズ | 長谷川寛治 | ・本大会が中モズ(アンツーカー5面、クレー18面)で開催される最後の大会となる。 |
52回 | 昭和37 | 1962 | 岡山市 | 長谷川寛治 | ・今大会より、大会が全国各地を巡るようになった。 |
53回 | 昭和38 | 1963 | 東 京 | 長谷川寛治 | ・各競技種目を統合し、名称が全国高等学校綜合体育大会となる。 ・学校対抗決勝戦(男子)が、テレビ中継される。 |
54回 | 昭和39 | 1964 | 名古屋市 | 長谷川寛治 | ・東京オリンピック開催。 ・文部省から補助金の増加、NHKから援助金が補助される。 ・団体戦の決勝戦が、NHKによって全国に放送される。 |
55回 | 昭和40 | 1965 | 別府市 | 長谷川寛治 | ・神和住 純選手シングルスに優勝する。 ・全国高等学校体育大会が同一地域で開催されるようになった。規模、内容においても高校生最大のスポーツの祭典として発展し、今日に至っている。 |
56回 | 昭和41 | 1966 | 秋田市 | 長谷川寛治 | ・シングルス決勝で、澤松順子・和子の初の姉妹対決で順子選手が優勝する。 |
57回 | 昭和42 | 1967 | 松本市 | 長谷川寛治 | ・澤松和子選手シングルスで優勝する。 |
58回 | 昭和43 | 1968 | 広島市 | 長谷川寛治 | ・加盟校数、男子377校・女子329校、合計484校となる。 ・元ヂ杯選手、阿部民雄選手によるテレビ映画の解説が行われた。 |
59回 | 昭和44 | 1969 | 太田市 | 長谷川寛治 | ・加盟校数500校を越える。 ・団体戦の優勝旗が出来る。 |
60回 | 昭和45 | 1970 | 西宮市 | 長谷川寛治 | ・岡田(大阪女学院)対船木(大谷)大阪同士の決勝戦となる |
61回 | 昭和46 | 1971 | 松山市 | 長谷川寛治 | ・佐藤直子選手シングルスで優勝する。 ・台風19号により大会が一日延期する。 |
62回 | 昭和47 | 1972 | いわき市 | 長谷川寛治 | ・沖縄が返還される。 ・男子団体戦5年連続優勝の柳川商業高校の特別表彰。 |
63回 | 昭和48 | 1973 | 四日市市 | 長谷川寛治 | |
64回 | 昭和49 | 1974 | 福岡市 | 長谷川寛治 | ・皇太子殿下、同妃殿下ご観戦。 |
65回 | 昭和50 | 1975 | 東 京 | 長谷川寛治 | ・福井烈選手3年連続団体・個人の全試合に全勝の、前人未踏の偉業達成を特別表彰。 |
66回 | 昭和51 | 1976 | 柿崎町 | 長谷川寛治 | ・加盟校数1,009校に達す。雨が降り続き帰った学校も有り。 |
67回 | 昭和52 | 1977 | 宇部市 | 太田 満 | ・長谷川寛治先生、全国高体連庭球部名誉部長に就任。 ・19年間続いた教職員大会最後の大会となる。 |
68回 | 昭和53 | 1978 | 福島市 | 太田 満 | ・全国高体連庭球部長、太田満先生急逝。古川薄先生が部長代行を務める。 ・各高等学校の生徒会が中心になり、独自の歓迎プランを作り、環境の美化や地域社会の協同作りなどに多くの成果を上げるようになった。 |
69回 | 昭和54 | 1979 | 彦根市 | 友末弘三 | ・長谷川寛治、全国高体連庭球部名誉部長より、団体戦男女優勝校に長谷川寛治杯が寄贈される。 ・第1回、全国選抜庭球大会(福岡久山ロイヤルテニスクラブコート)が開催される。 |
70回 | 昭和55 | 1980 | 松山市 | 友末弘三 | ・本大会70回大会を記念して、団体戦に連続10回以上出場の学校と20回以上出場した学校を表彰する。 ・男子団体戦で柳川高校が14連勝の偉業を成し遂げる。 |
71回 | 昭和56 | 1981 | 千葉市 | 友未弘三 | ・全加盟校数、1,500校を越える。 |
72回 | 昭和57 | 1982 | 鹿児市 | 友未弘三 | ・皇太子殿下、同妃殿下、礼宮殿下ご観戦。 |
73回 | 昭和58 | 1983 | 静岡市 | 友末弘三 | ・日程が遅れ夜間照明を付け、午後9時までやり問題になりかけた。 |
74回 | 昭和59 | 1984 | 秋田市 | 友未弘三 | ・加盟校数2,000を越える。 ・松岡修造選手、初優勝。 |
75回 | 昭和60 | 1985 | 辰口町 | 古川 薄 | ・初代全国高体連庭球部長、長谷川寛治先生逝去。 ・長谷川先生のご遺族より、「全国高校生のテニス育成資金」として、ご寄付いただく。 |
76回 | 昭和61 | 1986 | 倉敷市 | 古川 薄 | |
77回 | 昭和62 | 1987 | 江別市 | 古川 薄 | |
78回 | 昭和63 | 1988 | 神戸市 | 古賀通生 | ・伊達公子選手シングルス優勝。澤松と地元同士の決戦。 ・女子団体戦では史上初の地元同士(夙川学院・園田学園)決戦となる。 |
79回 | 平成元 | 1989 | 松山市 | 古賀通生 | ・澤松奈生子選手シングルス優勝。 |
80回 | 平成2 | 1990 | 仙台市 | 古賀通生 | ・第80回記念大会。 |
81回 | 平成3 | 1991 | 静岡市 | 古賀通生 | |
82回 | 平成4 | 1992 | 宮崎県 | 古賀通生 | ・今年度の全国高校総合体育大会は一県単独開催となる。 ・大会期間中二度も台風に見舞われるが予定通り実施された。 |
83回 | 平成5 | 1993 | 宇都宮市 | 古賀通生 | |
84回 | 平成6 | 1994 | 富山市 | 古賀通生 | |
85回 | 平成7 | 1995 | 鳥取市 | 古賀通生 | ・皇太子殿下、同妃殿下ご観戦。 ・阪神、淡路大震災。 |
86回 | 平成8 | 1996 | 甲府市 | 古賀通生 | |
87回 | 平成9 | 1997 | 京都市 | 古賀通生 | ・台風の襲来のため、男女単は準々決勝まで1セットで実施。 |
88回 | 平成10 | 1998 | 高知市 | 古賀通生 | ・60年ぶりに地元の宮崎雅俊選手、シングルス優勝。 |
89回 | 平成11 | 1999 | 盛岡市 | 古賀通生 | ・古賀通生部長、日本テニス協会ジュニア本部長に就任。 |
90回 | 平成12 | 2000 | 岐阜市 | 古賀通生 | ・第90回、記念大会。 ・全加盟校数5,500校を越える。 |
91回 | 平成13 | 2001 | 熊本市 | 古賀通生 | ・メイン会場が史上初のドーム開催となる。 |
92回 | 平成14 | 2002 | 神栖町 | 古賀通生 | ・男女同一会場(茨城県神栖町)で開催! 大いに盛り上がる。 |
93回 | 平成15 | 2003 | 長崎市 | 古賀通生 | ・豪雨のため初日が中止され、団体ゲーム数を短縮して実施。 |
94回 | 平成16 | 2004 | 備前市 | 宮浦典善 | ・田中真梨選手(共栄学園)3冠達成。台風に2度来襲されたが、運営には影響なし。 |
95回 | 平成17 | 2005 | 柏市 | 宮浦典善 | ・連日35度を超える灼熱の太陽のもと、熱い戦いが繰り広げられた。リアルタイムで試合の経過を知らせる速報体制がしかれた。 |
96回 | 平成18 | 2006 | 神戸市 | 宮浦典善 | ・地球温暖化による、過酷な気象条件が問題となる。選手・補助員の健康管理と、熱中症予防の呼びかけが行われた。 |
97回 | 平成19 | 2007 | 佐賀市 | 宮浦典善 | ・台風5号USAGI(ウサギ)の来襲により日程変更を余儀なくされた。試合時間・コート上の気温・医務室の状況が調査された。 |
98回 | 平成20 | 2008 | さいたま市 | 馬瀬隆彦 | |
99回 | 平成21 | 2009 | 明日香村 | 馬瀬隆彦 | |
100回 | 平成22 | 2010 | 那覇市 | 馬瀬隆彦 | ・第100回,記念大会。 ・沖縄開催により,インターハイがすべての都道府県にて開催となった。 |
101回 | 平成23 | 2011 | 青森市 | 馬瀬隆彦 | ・東日本大震災発生。津波により大きな被害が発生。 ・都道府県単独開催から,ブロック開催となる。「北東北ブロック」 |
102回 | 平成24 | 2012 | 南魚沼市 長岡市 |
迫田義次 | ・東京スカイツリー開業 ・「北信越ブロックインターハイ」 ・本専門部加盟人数がふたたび10万人を超える! |
103回 | 平成25 | 2013 | 福岡市 春日市 |
迫田義次 | ・長嶋茂雄,松井秀喜さんが「国民栄誉賞」を受賞 ・2020東京オリンピック開催決定 ・「北部九州インハイ」 |
104回 | 平成26 | 2014 | 江東区 | 家弓明丈 | ・テニスの聖地,有明テニスの森公園,ハードコートで「南関東インハイ」の開催。 ・関東地区特有の暑さ対策として,「ヒートルール」が採用 ・消費税8%へ |
105回 | 平成27 | 2015 | 大阪市 | 家弓明丈 | ・53年振りでインターハイ発祥の地、浜寺公園の近くにて開催。 ・落雷被害を出さないために、雷レーダーを活用。雷の事前察知 |
106回 | 平成28 | 2016 | 松江市 安来市 |
家弓明丈 | ・錦織選手の地元島根県で初めてのインターハイテニス競技「中国総体」 ・地元・細木咲良選手が女子シングルスで優勝。大いに盛り上がった。 ・古賀通生名誉部長、逝去 |
107回 | 平成29 | 2017 | 会津若松市 | 家弓明丈 | ・東北出身の菊地裕太選手(相生学院)が3冠達成 |
108回 | 平成30 | 2018 | 四日市市 | 石原弘也 | ・秀明八千代の 白石 光 選手が三冠達成 |
109回 | 令和元 | 2019 | 宮崎市 | 石原弘也 | ・優勝旗が初めて津軽海峡を渡る(個人戦女子シングルス) |
110回 | 令和2 | 2020 | 長浜市 | 石原弘也 | ・新型コロナウイルス感染症拡大の影響により高校総体初の中止に |
111回 | 令和3 | 2021 | 松本市 | 岸 徹 | ・新型コロナウイルス感染防止対策をして、無観客で開催 |
112回 | 令和4 | 2022 | 高知市 | 黒岩睦雄 | ・感染対策を施し、3年ぶりに有観客で実施 |
113回 | 令和5 | 2023 | 苫小牧市 | 黒岩睦雄 | ・36年ぶり北の大地で開催 緩和で久しぶりの大声援 |
114回 | 令和6 | 2024 | 大分市 | 黒岩睦雄 | ・酷暑の大分 特別ヒートルール ダブルスにサービスノーレットルール採用 |